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『虐殺器官』小説と映画を比べてみながら感想【追記】

ようやっと読破しましたー!小説のほうの虐殺器官
映画を見てから小説を読むと、情景が映像として浮かんでくるから理解がしやすいっていう利点がありますよね。
このシーンはあのシーンか、じゃあ背景はこんな感じだな、とか。
特にプラハの情景がイメージできるのは良かったかなぁ。
あのバーの雰囲気は、文字だけだとなかなか難しい気がする。
奈落とか、脳を映像にトレースしていた彼とか。

下記、若干のネタバレを含みつつ感想なのでご注意。

 

 

映画と小説で一番違うのは、パンフレットにも書いてあったけどクラヴィスの母親の存在。
映画では母親の存在はほとんど、というより全く出てこないので、クラヴィスという主人公の立ち位置が大きく違う印象がありました。
映画でのクラヴィスは、どちらかというと視聴者寄りというか、物語の語り部としての役割が大きかった印象で、彼の感情的な部分の描写はあまりなかった気がします。
でも小説におけるクラヴィスは、彼の主観的な意見も多分に含んだうえでの語り部だったので、本当に主人公、という感じがしました。
小説のクラヴィスは、ずっと自分を罰してくれる存在、自分を赦してくれる存在を求めていて、その役割をルツィアに求めたからこそ、あんなにも彼女に執着していたというのが分かるんだけど、映画はその前提が語られていないから、なぜ彼がルツィアに惹かれるのか、なぜ好きになったのかというのが全然分からなかった。
小説でのクラヴィスからルツィアへの想いというのは、恐らく相手が女性だったから恋愛感情に近しいものになっただけで、ルツィアが男性であってもあの関係性や執着というのは存在したんだろうなと思えました。
少し違うかもしれないけど、とある商業BLで、夫婦には、親友同士がたまたな男女だったから結婚しただけで、同性だったらずっと親友のままだったんじゃないか、というようなセリフが出てくるんですけど、クラヴィスとルツィアはそれに近い感じなのかなぁって思います。
あまり彼らの関係に男女というのは意味がないような気がするというか。
まぁでも、クラヴィスの中にいるのが母親だから、同じ女性であるルツィアに色々重ねてしまうとか、そういうのはあるかもしれない。だってクラヴィスが求めているのはやっぱり母親だから。
恋愛にしちゃったら、ルツィアはどうあってもジョン・ポールしか見ていないから、クラヴィスに勝ち目はないよね。というか、クラヴィスは彼女の人生においては村人Aみたいなもので、アフリカで出会った時にようやくクラヴィス・シェパードとして認識してもらえた、くらいな感じだったもんね。
もしあそこでルツィアが死なずに生き残っていて、彼女が望むようにジョン・ポールが裁かれるような結末だったら、その先でクラヴィスとどうにかなる可能性はあるのかもしれないけれど。

話を戻しまして、クラヴィスの母親。
母親の生命維持装置を自分の意志で止めることを選んだクラヴィスは、ずっとずっとそのことを胸につかえさせていて、だからクラヴィスの罰されたい・赦されたいという思いがこの物語の中心にずっとずっと存在しているんですよね。
後半に向かうにつれて、クラヴィスの行動理由というのはすべてそこに帰結しているような感じがありました。

あと、アレックスの存在も。
映画のアレックスと小説のアレックスもまた、与えられた役割が違うキャラクターでした。
映画では割と序盤でさっくり死んでしまっていたから小説読んでびっくりしたんだけど、映画でのアレックスは人によって理解が違うんだろうなと思いました。
私は、アレックスは“虐殺の文法”の存在を匂わせるための役割だったのかなって思っていて、何かしらのきっかけで人を狂わせることができるんだよ、っていうのを伝えていたのかと。
車の中での会話は原作と同じものだったけれど、彼が迎えた結末はまったく違ったし。
彼のセリフ、「地獄はここ(脳)にある」っていうのは、小説ではかなり重要なキーワードになっていたけれど、映画では要素の一つになっていたような気がします。
小説のラストで、まさにクラヴィスが陥ったのはその状態、脳の中にある地獄に叩き落されて二度と出てくることのできない状態になってしまった。
でも映画におけるクラヴィスのラストはそうではない(ように私には見えた)。
そういう意味で、アレックスの役割がちょっと違うんだなって感じました。
まぁでも、2時間足らずの映画に盛り込みすぎると主題が分散してしまうから、映画は映画で全然アリだなって思いましたけどね。

あと映画と小説で違うと感じたといえば、ウィリアムズかなぁ。
上記の母親とアレックスは映画でキャラクターの重要度が下がった2人でしたが、ウィリアムズは逆に上がってた気がする。結構出張ってたよね。
でも彼がいることで物語が重くなりすぎないっていうのはあったと思うし、ずっと明るく存在してくれていた彼がラストでああなったという流れもすごく良かった。
彼の家族が出てこないというのも良かったなぁ。そのおかげで、その他大勢のアメリカ人、という存在へ思いを馳せることができたというか。
ジョン・ポールが守りたかった大勢のアメリカ人=ウィリアムズの妻や子供のような存在は、確かに存在するんだなと思えたというか。

 

その他、ストーリーの流れだったり大筋みたいなところはほとんど映画と小説で同じだったので、そのあたりの違和感はまったくなかったです。
素晴らしい。
映画も小説も同じ世界の中にいるのが良かった。
最近の映像化作品って、基本が「映画と小説は別物」っていうつもりで見ないとしんどいものが多いけれど、虐殺器官に関してはそこまでの乖離はないように感じられました。
まぁ小説から映画に入った人がどういう感想を持つのかは分からないけれども。
でも、なんというか、映画も小説もどっちも見て、虐殺器官という作品が完成するというような、そんな風に私は感じました。

 

そういうわけで、個人的には映画から入って小説にいくほうがいいのかなぁって思いました。
小説のほうがやっぱり絶対的な存在だから、小説から入って映画見ると「違う」って思っちゃう部分とか「足りない」って感じる部分が多いんじゃないかなぁと。
ある意味で映画はすごくフラットに作られている感じがしたんです。
小説はやっぱり伊藤さんのもので、それを他者が見て客観的な理解の上に作り替えるとあの映画になるのかな、と。
監督の主観的な理解というのは、あの映画にはあんまり入れていないんじゃないかなって思えて、だから映画は割と分かりやすかったのかなって。
まぁあくまで想像なので、実際のところは分からないんですけど。

 

それにしても、「屍者の帝国」よりも「虐殺器官」のほうが随分と分かりやすかった気がするなあ。
屍者の帝国」はなんせ複雑で難しくて!
読み返したいんだけどなかなか気力と勢いが足りなくて始まらない(笑)

 

久々にがっつりした感想書いた~~

映画『虐殺器官』まだいくつかの劇場で公開中ですよ。

 

 

追記。
エンディングについて書きそびれた。
映画を見た時、あの終わり方は、ジョン・ポールから彼がやってきたことやその真意の暴露を託されて、クラヴィスは真実を語るためにあの場所にいたのかなと思っていたんだけど、小説を読んでそれは違ったんだと知りました。
ラヴィスは、アメリカという国を地獄に叩き落とすためにあの場所にいたんだね。
ジョン・ポールが守ろうとした世界を叩き落とすために。
映画では、割と前向きというか、明るい未来が見えたように感じたんだけど、小説を読んだら、この世界の直近の行く末は暗いんだと感じて、その先にハーモニーの世界が続いているんだということに何だか納得がいきました。
小説のエンディングのクラヴィスは、何というか、感情がよりフラットになってしまったというか、無になった感じがしたというか。
虚無感?とも違うんだけど…んー…何ていったら良いのか分からないけれど、人間味が薄れたというか。
よりいろいろと考えさせられるような仕様になっているなと思いました。

いずれにしろ興味深い作品であることに変わりはないので、映画の公開中に観にいけなかったらBD買ってもっかい見たいと思います。